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エッセイ『千歳くんはラムネ瓶のなか』とヒーロー論

こんにちは、とこーです。

本日は『千歳くんはラムネ瓶のなか』について語るよ、ってコーナーになります。考察ってほど大したものではないのですが、ごりごりネタバレしていくことになると思います。また、大学の期末レポートを書く前の筆慣らし的な意味合いもあるので、ちょっと硬い文体でいきます。特に「~だ」「~である」みたいな断定口調になるのですが、これは決して読みを限定したり断定したりしたいのではなく、純粋に言い切りの文体で書くのに慣れておきたいからです。ご容赦ください。

それでも気になるよ、という方は読んでいただければと思います。

 

 

1.本エッセイの趣旨

 本エッセイでは『千歳くんはラムネ瓶のなか』を「ヒーロー」という要素から考察する。具体的には、シリーズ前半として銘打たれた一~六巻(六・五巻もだが、短編集であるため本エッセイでは別に考える)を「脱ヒーローの物語」、シリーズ後半である七巻以降を「回帰ヒーローの物語」として位置付ける。ここでいう「脱ヒーロー」「回帰ヒーロー」の主体は主人公の千歳朔であり、前者は彼が「ヒーローでなくなる」、後者は「再びヒーローになる」ことを言う。

 

2.シリーズ前半における「ヒーロー」

 まずシリーズ前半における「ヒーロー」という言葉の立ち位置について考える。初出は第一巻における次の一節だ。

「手の届く場所に自分なら解決できる問題が転がってるのに、それを放っておいてもいいのか? ……なんでもできるみんなのスーパーヒーロー千歳くん」

 これに続くのが、山崎家に向かう際の朔と夕湖の会話だ。

「絶対解決するでしょ。私のヒーローだもん」

(略)

 ヒーローである条件とはなんだろう。それはきっと、いついかなるときでもヒーローじゃなくならないことだ。

 一巻においてたびたび現れる「ヒーロー」という言葉であるが、単一の意味を指す語として扱われてはいないだろう。特に一巻にて、「ヒーロー」は二種の異なる人物像を指している。

 まず一つは、先述の蔵センのセリフにある「ヒーロー」だ。これは周囲からの期待を受け、それに応えなければならないと考えている千歳朔を指している。分かりやすいのは健太と朔の会話だ。

「だろう? 一度ヒーローのレッテルを貼られたら、死ぬまでパーフェクトなヒーローで在り続けるしかない。そうでなくなった瞬間、亡者が足を引きに来るからだ」

 一巻は千歳朔という“リア充”を紹介する意味合いを強く持つ巻である。そのため、ここで指している「ヒーロー」は、有り体に言ってしまうと「リア充だって大変なんだぞ」的なニュアンスを持っている(あくまでここは前提であるため、作中の意味付けをかなり安易に解釈している点にはご容赦願いたい)。

 一方、先述の夕湖が言う「ヒーロー」は、周囲から貼られるレッテル的な「ヒーロー」とは異なる。ここで指されている「ヒーロー」は朔の性格的な部分のことだろう。一巻終盤における健太援護射撃シーンが顕著だ。健太がその姿を「世界一尊いアホ」と述べており、仲間や友達を守ろうという意思や熱さは朔のかなり根源的な要素だと言えるだろう。

 一巻では前者のレッテル的な「ヒーロー」から朔の内面的な「ヒーロー」を提示し、そのうえで後者の「ヒーロー」となってしまう自身を朔が「案外気に入ってる」と考える(明日風談)、という物語の展開がなされる。が、しかし、これは朔自身が強烈に変わったとは言えない。これはプロローグ『千歳くんのつつがなく平和な世界』から読み取ることができる。プロローグにおいて彼は同級生の女子に勉強を教えた帰り道、その彼氏から絡まれる……というチャラ男的なエピソードに遭遇している。しかし、そこでは次のような描写がある。

 なんとなく気持ちよくなった俺は、力強く地面を蹴ってスピードを上げた。

 朔が自身の在り方を、もともと「案外気に入ってる」と考えているからこその描写だろう。それでも朔は不安定な思春期だから、「エアポケットみたいな時間帯にふと、考えることがある」のだ。

 単にレッテル的な「ヒーロー」から内面的な「ヒーロー」への成長、として読むのは早計だと言えよう。

 さて、ここからは後者の「ヒーロー」を《ヒーロー》と表記することにする。

 

 二巻以降、物語は一巻とはまた別の位相に移る。一巻がプロローグ的な位置づけであるということは既に述べられており、ヒロインが主体となる二巻以降からがシリーズ前半の主軸と見ていいだろう。

 二巻はある意味でシンプルだ。ここで提示されるのは「ヒーロー」よりも《ヒーロー》である朔であり、そんな《ヒーロー》像の深堀の物語と見ることもできる。たとえば夕湖や優空に心配されるシーン、明日風や蔵センとの屋上での会話などが挙げられる。

 この流れが三巻で継承されていると見るべきか、変化していると見るべきか。二つの見方があるだろう。三巻における朔は二巻までと打って変わって、年下の後輩然としている。《ヒーロー》らしくぶつかりはするが、一~二巻のような分かりやすい敵はおらず、できることは少ない。それゆえに一、二巻までの物語の型から外れた、と見ることもできる。その意味で「変化している」と見ることもできるが、逆に《ヒーロー》の弱さ・内面の吐露という着眼で言えば、むしろ二巻の流れを正統継承しているとも言える。

 四巻は一層分かりやすく《ヒーロー》を表現した物語だと思う。その熱さや真っ直ぐな姿勢は一~三巻で提示されてきた《ヒーロー》像だろう。

 ただし、特に三巻と四巻で注意しておきたいのは、いずれもヒロインが朔を激励し、背中を押す描写があったことだ。三巻では悠月、四巻では陽。朔はただ《ヒーロー》であるだけではなくなり始める。これは悠月と陽だけでなく、朔と一晩を共にした明日風の存在も大きいだろう。

 

 そして五巻。ここで大きく話が転換する。

 ヒーローという観点で見ると、「背負いすぎの物語」だと言えるだろう。五巻において、朔にとって大切なものが様々に提示される。チーム千歳や明日風をはじめとし、夕湖の母である琴音や明日風の父の存在によって、朔は荷物を背負いすぎてしまう。それゆえに五巻の結末となり、六巻に続く。

 六巻はまさにそんな五巻のアンサーだと言っていい。ここで三巻から続く、朔がただ《ヒーロー》であるだけではなくなる、という流れが生きてくる。彼は周囲の面々の言葉を受け、《ヒーロー》であることをやめるのだ。

 ――千歳朔(ヒーロー)ではなく千歳朔(ひとりの男)として。

※()内はルビ

 では六巻を経て朔は《ヒーロー》でなくなったのかと言うと、そんなことはない。六・五巻の彼の行動からも分かるように、彼の根本的な「いい奴度合い」ともいえる《ヒーロー》な部分は変わっていないのだ。

 ここで彼が「ヒーローではなくひとりの男」になったのは、『千歳くんはラムネ瓶のなか』という物語自体の位相の変化を表していると言えるのではないだろうか。

 

 一~四巻において、物語の焦点は恋ではない。他に何かしらの問題が生じ、それに対して朔とその主たる人物が向き合う形で展開される。この位相において、朔は《ヒーロー》である。

 だが五巻以降、その中心には恋がある。しかも好かれているのは朔だ。この位相において、朔は《ヒーロー》にはなることができない。なぜなら、彼の心がまだ決まっていないからだ。想い人が定まっていないくせに、自身に向けられた想いによって生じた問題を解決できるはずがない。

 

 こうして、朔は『千歳くんはラムネ瓶のなか』という物語における《ヒーロー》ではなくなった(もちろん日常生活での仲間への思いやりとかは変わっていない)。

 ゆえに私はシリーズ前半を脱ヒーローの物語として位置づける。

 

3.シリーズ後半におけるヒーロー

 シリーズ後半、といってもまだ刊行されているのは七巻のみである。しかしシリーズ前半と後半の間の六・五巻や七巻の特典SS、七巻発売後に刊行されたコミックス五巻の巻末SSなどを読み解くと、シリーズ後半が回帰ヒーローの物語として位置づけられるのではないかと推測している。

 まず、シリーズ後半において朔が《ヒーロー》でないことは先述のとおりである。特に七巻を見ていると朔が情けなかったり、どこか置いていかれているように見える展開があるが、これはそのためである。現在、朔は《ヒーロー》でない。脱ヒーローの状態だ。

 では次に、今後にまつわる描写を見ていこう。

 まずは七巻プロローグ『ヒーロー見参』から。

 ――今度は私が私のヒーローだ。

 ここはおそらく紅葉のモノローグだが、言及されてはいない。ただ肝心なのは語り手が誰かではなく、内容だ。続いて、コミックス五巻巻末SS『私のお返し』からも引用する。

「そういう悠月にしかできないお返しってやつが、いつか見つかるよ」

「いつかって……?」

「あんたも本物のヒーローになれたとき、かな」

 このSSは特典ではないのでコミックスを買えば必ず読めるからぜひ読んでいただきたいのだが、重要なのはそこではない。二人の人物がヒーローになることが示唆されている点である。

 シリーズ後半、朔は現状《ヒーロー》になれない。だからこそ、まずはヒーローになることのできるヒロインたちがヒーローになっていくのではないだろうか。誰のか、といえば、それはもちろん「自分自身の」である。しかもこれは、シリーズ前半で指していた《ヒーロー》とは異なる。後半において物語は恋を中心とした位相に移行していることは、既に触れたとおりである。

 では現在の位相における《ヒーロー》とは何か。さらに言えば「自分自身の」と頭につけるような《ヒーロー》はどんな存在なのか。紅葉の行動や悠月の七巻四章でのモノローグから読み取るに、「自身の望みに手を伸ばすこと」が《ヒーロー》像に合致すると言えると思う。もっと分かりやすくいってしまえば「月に手を伸ばせ」状態だ。

 

 さて、ここまで触れれば私が述べたいことも分かっていただけたであろう。

 回帰ヒーローの物語とはつまり、朔が恋心の矢印を定め、自分自身とその相手のための《ヒーロー》として恋の物語に回帰することを指す。

 六・五巻では次のようなやり取りがある。

「夕湖は、朔にとってどういう存在でありたい?」

(略)

「朔はかっこいい、って言ってあげられる女の子でありたいな」

 また先ほど述べたコミックス五巻巻末SSにも次のような描写がある。

 もしも私からなにかをお返しできる日がくるのなら。

 それはきっと、ヒーローがヒーローでいられなくなったときなんじゃないかと、なぜだかそんなふうに思った。

 もちろん後者は二巻時点でのモノローグだから、六巻の朔宅でのやり取りがこれに当たると読むこともできる。だが七巻での悠月の様子を見るに、まだお返しができているとは思えていないようだ。

 このことからも、朔が《ヒーロー》になれない今の悠月の「お返し」、そして朔のヒーローへの回帰が示唆されていると言えるだろう。

 

4.まとめ

 話を要約すると「シリーズ前半は朔がヒーローになれない舞台で無理にヒーローをするのをやめる」「シリーズ後半はみんなが自分自身のヒーローになり、そして朔がヒーローとして回帰する」ということになる。

 結果として「朔が誰かに告白する」という事象に収束するが、もちろんそんな展開予想は趣旨ではない。本エッセイで提示したかったのは、シリーズ後半を読み解くうえでの「ヒーローへの回帰」という視点である。

 ヒーローからひとりの男になったからこそ、もう一度千歳朔はヒーローになる。一度取り出されたビー玉は、誰かの心でカラフルに輝くビー玉として、再びラムネ瓶のなかで音を鳴らすのだろう。からん、と。その瞬間こそ『千歳くんはラムネ瓶のなか』というタイトルが新たに意味づけられ、完成する瞬間だと思う。

 

 

 

5.終わりに

……なんだ、この怪文書は?????

途中からヒーローヒーロー言いすぎて意味分からなくなかったです?私も書きながら、物語の位相とか言い出し始めて「は?????」ってなりました。

でも物語の位相って見方は割としっくりくるような気もします。朔がヒーローでなくなったというよりも、ヒーローになれない舞台でヒーローを演じるのをやめた、が正解な気がするんですよね。特に六・五巻とかを読んでると。

ともあれ、今回は六・五巻を読んでいた時から薄っすらと感じていた「ヒーローへの回帰が後半のテーマになっていくのでは?」というもやもやを言語化したエッセイでした。レポートの練習とか言いながら文章が雑すぎて、レポートの体をなしてないんですけどね……。まぁ長文を書くリハビリということで!

 

さて、ここまで読んでくださったかた、ありがとうございました。

今回紹介したコミックス五巻巻末SSはファン必読の名SSだと思います。また、現在メロンブックスさんで開催中のフェアでもらえるスペシャルアンソロジー収録のSSも超いいです。どちらもぜひ、入手してください。

bookwalker.jp

 

toko-96463.hatenadiary.jp

 

それでは今日はここまで。

読んでくださってありがとこーございました!